心を比喩で理解する

■箱としての心

 還元主義者たちは、みなそれぞれお気に入りのアナロジーを近代科学から取ってくる。だが、これらの成功した還元の諸事例は、心身問題とはなんの関係もなく、そのどれをとっても、心と脳の関係を解明するのに役立つとは思えない。

トマス・ネーゲル(永井均訳)『コウモリであるとはどのようなことか』、1989、勁草書房、pp.258-259



 トマス・ネーゲルが述べるような心身問題だけに限らず、なぜか「こころ」にかんする問題は、その時々で流行りの科学的な知見やモデルが適用され、それをもとにして説明される傾向にある。そして、さもそれが解答であるかのように喧伝される。しかし、結局、それはある言語をただ別の言語へと翻訳したようなものであり、すなわち、それは問題を違う言語で、別の形式で説明しているに過ぎず、あるいは、問題を別の問題へと置き換え、解決を先送りしたに過ぎない。

 問題をメタファーで理解するうえで、あるいは理解を深めるうえで肝要なのは、そのメタファーが最新の科学的知見やモデルに基づいているかどうかではなく、また、問題を別の問題へと翻訳することでもなく、その問題の本質的な構造をあぶり出す適切なメタファーを見出せるかどうかにある。そして、私たちは、もっと身近にあるものからそれを見出すことができる。その「こころ」の適切なメタファーとは、すなわち、箱である。


■箱としての私

 箱としての「こころ」は、それ自体の何かとしてというより、そこに何かを入れるものとして存在している。そして、意識が常に何かについての意識であるのと同じように、そこには、そのときどきで中身は違うが、常に何かが入っている。しかし、有名なウィトゲンシュタインのカブトムシのように、その箱の中に入っているものを他者に語ることができたとしても、それを直接見せることはできない。それを直に見る(感覚・知覚する)ことができるのは、ただ「この」「わたし」だけである。

 また、この箱は、内側と外側をそのままひっくり返して考えることも可能である。「わたし」は「こころ」という箱の中に入っている。その箱の中にいるのは、ただ「この」「わたし」だけである。もちろん、それぞれの「わたし」がそれぞれの「こころ」という箱の中に入っていると相対化して語ることも可能である。それでも、「この」箱の内側の柄(「いま、ここ」の風景)は、たとえ言葉にして共有することができたとしても、「この」「わたし」だけがそれを直接見ることができる。

 「こころ」のたとえとしての箱は、「わたし」の内側においてあるものと言え、同時に、「わたし」の外側においてあるものとも言える。それをひとつのものとして理解しようとするならば、クラインの壺のように、表と裏とが複雑に交差し、捻じ曲がったような構造をしているものとなってしまう。このような箱のとらえ方、内側か外側かといった差異は、同じものの異なる側面は、文法に、その人称構造に起因している。すなわち、一人称と三人称の差異である。一人称的に言えば、「わたし」は「こころ」という箱のなかにおり、三人称的には、それぞれの「わたし」がそれぞれの「こころ」という箱を持っている。


■箱としての他者

 次に、二人称、つまり他者について考えてみよう。他者の「こころ」とは他者の皮膚の裏の奥にある何かである。すなわち、他者とは、常に、外から眺めるしかない存在者のことなのである。メタファーとしての箱に即して言えば、先述のように、「こころ」としての箱の中身を見ることができるのは、あるいは、そこに入れるのは「わたし」だけである。「わたし」ではない他者の箱の中身を「わたし」は直接見ることはできず、また、入ることも、その箱の内側の景色を見ることもできない。あくまでも、箱の外側から内側を推察するしかないのである。

 それは、たとえば表情やジェスチャーなどのなんらかの他者の表現からの推測、言語による他者の語りへの規約による信頼、“もしも自分だったら……”と他者の立場に置き換える、すなわち、「わたし」の箱から他者の箱を類推、などなど、となる。このような二人称への日常的なアプローチは素朴心理学と呼ばれているが、学問としての心理学であっても根本的な事情や制約は変わらない。そこで行われているアプローチもまた、経験的な行動やふるまいの観察であり、言語的なやり取りに基づいているからだ。もちろん、神経科学(脳科学)でも同様である。たとえばMRIで輪切りにして見ることのできるのは脳という物質や身体の内側であり、「こころ」を輪切りにできるわけではない。いくら脳を輪切りにしようとも、また別の他者の表現を見ることができるだけなのである。

 「こころ」は、その内部の構造がよく分からないという意味で、入出力を通じてその内部を推測せねばならないという意味で、ブラックボックスにたとえられることがある。それは、このような箱としての「こころ」を外側から見るしかない、そのような二人称性を表したものであると言える。二人称としての「こころ」は、その内側が不可知であるという意味でのブラックボックスなのである。もちろん、これは、「わたし」もまたひとりの他者なのだから、一人称としての「わたし」の「こころ」の箱も、外側から、他者から見ればブラックボックスとなっているということを意味するのである。

 ここには、同じ言語の使用者でありながら、存在者として異なるところの人称による不可避の断絶あるいは間隙がある。すなわち、一人称の箱のなかから他者のブラックボックスの外側を見るという意味では一人称と二人称の差異、「わたし」も他者も同列に箱を持っているとしたうえで、ある他者のブラックボックスの外側を見るという意味では三人称と二人称の差異であると言える。いわば、前者が一人称主観における他者へのアプローチであるとすれば、後者は客観的な他者へのアプローチということになるのだろう。

記事一覧

※この記事は、以前書いた“「わたし」が「こころ」を理解するということ”、“ブラックボックスとしての「こころ」”、“他者を知ることの不可能性もしくは不可能性の不可能性”、“「こころ」は何にたとえられるのか”、“意識を外から持ち込まれた別の原理に置き換えて説明することはできない”を発展的に統合したものである。
スポンサーサイト

テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

断章107


“朝は四本足、昼は二本足、夕方は三本足の生き物ってなあんだ?”というスフィンクスの問いに、“朝は四本足、昼は二本足、夕方は三本足の生き物!”と、小学生的な感性のジョークでもってエディプスが答えたらどうなるだろうか。たしかに、このような同語反復な解答は間違ってはいない。が、トリビアルであり、ナンセンスであり、なぞなぞやクイズとして成り立たない。ここから分かることは、通常、なぞなぞやクイズにおいて求められるている答えとは、問いが指示する対象と一致するが言語表現としては異なるものである。そして、なぞなぞやクイズの場合、たいていは、問いは指示対象の説明であり(確定記述)、解答者はその名前を答えることになる(直接指示)。

テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

デカルトのパズルへの解答例


 野田又夫の『デカルト』(岩波新書、1966)に書かれていたのだが、デカルトと同時代人のガッサンディは“我思う、ゆえに我在り”というデカルト的命題(Cartesian Proposition: CP)には、三段論法の大前提として“すべて思うものは存在する”が隠れているのではないかと指摘したとのことである。すなわち、大前提“すべて思うものは存在する”、小前提“私は思うものである”、ゆえに、結論“私は存在する”となる。

 そうすると、CPを条件法と解して一般法則化した全称文“∀x(我思うx ⇒ 我在りx)”(いかなるものであれ“我思う”ならば、そのものは“我在り”である)も、ガッサンディに言わせれば大前提ということになる。そこから、“∃x(我思うx ∧ 我在りx)”(我思い、かつ、我在るものが存在する)を導出しようとするのではなく、個体定項を用いた“我思うa”、∴“我在りa”ということになるのだろう。これならば、たしかに妥当な推論式となる。

 しかしながら、この場合も、このアプローチでも、“我思うa”の時点で、すでに“a”が存在することになっているのではないだろうか。個体を割り当てるということは、そういうことを意味するのではないだろうか。つまり、結局、“aは“我思う”、ゆえにaは存在する”ではなく、““我思う”ようなaは存在する、ゆえにaは存在する”となり、証明すべき結論が前提に含まれてしまっており、論点先取の誤謬に陥ってしまうのではないだろうか。

記事一覧

テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

決定論との文法的対立を通しての自由意志

 自由とは、常に、何かからの自由である。必ず文脈や前提を必要とし、自由それ自体などというものはありえない。では、自由意志は何からの自由なのであろうか。とりあえず、ここでは決定論としておこう。そして、各種文法によって、この自由意志と決定論の対立は、『純粋理性批判』のカントが言うところのアンチノミー(二律背反)は、異なった姿を見せることになる。自由意志と決定論の混乱やアポリアの大半は、この対立が文法的なものであることを見落とすか、キメラ的に混同することから生じているように思われる。


■人称

 「この」「わたし」は、自由に判断でき、自由に行為することができるという、「この」「わたし」は自由意志を持つという直観を、「この」「わたし」は持っている。また、「この」「わたし」ではないが、「わたし」と同様であるはずの他の「わたし」である「あなた」にも自由意志を認めている。少なくとも、そのように規約的にみなす社会、慣習、歴史などのなかに、そういったノモスのなかに「この」「わたし」はいる。すなわち、自由意志とは、一人称主観的、あるいは一人称と二人称の相互主観的・間主観的なものであると言える。

 しかし、それを、俯瞰的に、三人称客観(ピュシス)的に見た場合、自由意志は消失し、認められないことになる。なぜなら、三人称客観的に存在するのは、この立場から行為や行動の背景にあると考えられるのは、物理的・身体的な連鎖だけだからであり、そこに自由意志の余地はないからである。こうして、たとえば有名なリベットの実験からの帰結が自由意志に否定的なものであったとしても、なんら不思議はないことが分かる。それは、物理・身体の反応の連鎖の途中で、その一端として、被験者からの報告があったというだけのことであり、最初から、文法的に、その構造上、自由意志は見出しようがなかったのである。このような人称上の決定論は、機械論的決定論と言える。


■時制

 意志が自由であるということは、現在の「この」「いま、ここ」の未来への決断が自由であるということである。また、同様に、過去のある時点のそのときの「いま、ここ」から未来への決断が自由であったということであり、未来のある時点のそのときの「いま、ここ」からさらに未来への決断が自由であるだろうということである。このような理解のとき、時間というものを点的(punctual)にみなしていることになる。これは、文法(時制)的に言えば、進行形である。

 それに対して、リニアで、線的(durative)な時間理解がある。これは完了形である。完了形的な時間理解では、過去から未来がひと連なりとなっており、ある時点の「いま、ここ」も、その連なりに吸収されることになる。すなわち、「いま、ここ」の未来への決断も、自由によるものではなく、過去からの影響によるものとなるのである。こうして、時制における自由意志は消失する。そして、この完了形的な時間のひと連なりとは、因果連関であると考えられる。よって、このような時制上の決定論は、因果論的決定論と呼ぶことができる。


■様相

 自由意志による選択(Pとする)とは、その選択はあくまでもひとつの可能性であって、他の可能性も可能であるということ(◇P∧◇¬P)、あるいは、選択の結果、現実性として現にこうなっているが、それ以外の可能性も可能であるということ(P∧◇¬P)である。それに対して、自由に選択したつもりであったとしても、その選択が必然的であった(□P、¬◇¬P)という場合、自由意志は消失する。このような様相上の決定論を、運命論的決定論と呼ぶことができるだろう。


■独X論的な自由意志

 上述の自由意志と機械論的決定論という人称上の対立において、人称による差異により厳密に即すこともできる。すなわち、そもそも、よくよく考えてみると、「この」「わたし」は他者の自由意志そのものは知らない。「この」「わたし」が目にするのは、他者の行動やふるまいだけであり、その背後にある自由意志は確認のしようがない。上述のように、あくまでも、「この」「わたし」ではないが、「わたし」と同様であるだろうという類推や推測のもとで他者に自由意志を認めているのである。こうして、自由意志とは、「この」「わたし」の「この」自由意志のことであるということになる。これは、きわめて独我論的な自由意志観である。

 同様に、自由意志による決断は、常に、「この」「いま、ここ」においてのみなされると考えることができる。「この」「いま、ここ」において、まさに進行している、その瞬間の「この」決断においてのみ自由意志が可能であるとするのである。つまり、過去や未来の「いま、ここ」の決断は、このとき、やはり、「この」「いま、ここ」からの類推や推測でしかなくなり、「この」「いま、ここ」以外の「いま、ここ」は、「この」の「この」性のなさ、そのアクチュアリティのなさから完了形的な因果連関に飲み込まれることになる。このような自由意志観は、独我論ならぬ、独「いま、ここ」論的な自由意志であると言える。

 では、独現実論的な自由意志はどうなるのだろうか。すなわち、他の可能性を認めず、現実性しか存在しないとする自由意志観である(P∧¬◇¬P)。しかしながら、自由意志は、他の可能性を認めることで可能となるので、これは矛盾してしまうように思われる((P∧◇¬P)∧(P∧¬◇¬P))。また、独現実論的な自由意志観では、現実の選択は必然的であり(P∧□P)、現実の選択と運命論的決定論の外延が重なり合う。そうすると、独現実論のもとでは、現実の選択がどのような選択であれ、いや、その“どのような”が意味をなさず、すなわち、自由意志も不可能となるのではないだろうか。

記事一覧

テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

断章106


デイヴィッド・ルイス(出口康夫監訳)『世界の複数性について』(2016、名古屋大学出版会)という本を読んだ。

私がピーター・アンガーではなくデイヴィッド・ルイスであるということは世界に関する事実ではない。そして、より強く言えば、それは説明を要求する事実ではない。もしそれがなんらかの事実であるならば、それはに関する自己中心的な事実であり、決して世界に関する事実ではない。このような自己中心的事実を説明するということが何を意味しうるのか、われわれはまったく分からない。それゆえ、そうした説明を与えないことはきわめて賢明である。

同書、pp.145-146 傍点は太字にした



引用の要件から外れ、転載になりかねないので避けたいのだが、しかし、これ以上、ほとんど何も付け足す必要がないほどの完璧な洞察である。そして、このブログで考えてきたこととほぼ一致する。それゆえ、とても励まされ、大変心温まる洞察である。

引用にしたいので、この洞察について強引にでも何かを述べよう。そう。ルイスの言うように、“私が私である”または“私が私であるところのものである”というのは“世界に関する事実”ではない。また、そのトリビアルな自明性ゆえに、説明が必要な事実ではなく、そして、さらに言うと証明も必要ではないだろう。それは、当の私自身にとってただ単にそうであるというだけの、“私に関する”、当の私自身にだけ関する“自己中心的な事実”である。

では、説明や証明はしないにしても、そんなものは無視してしまえばよいかというと、おそらくそうでもない。それは、そこを基点とし、出発点(起点)とすべき公理的事実であるように思われる。

これ以外に啓蒙させられた、薄々気づいてはいたが、はっきりと、明示的に言葉にしてくれた感動的な洞察をもうひとつ。

 そもそも、同一性に関して何か問題が生ずることなどありえない。同一性はまったく単純な概念であり、そこには何も問題などない。まず、あらゆるものはそれ自身と同一であり、自分自身以外の他のものと同一であることはない。ここで、あるものを自分自身と同一にさせるものは何かという問題が生じることは決してない。そうならないことはありえないからだ。また、ある二つのものを同一にするものとは何かという問題が生じることも決してない。二つのものが同一になることなど、ありえないからだ。(中略)
 たしかに、われわれは同一性を用いて多くの本物の問題を提示している。だが、そうする必要はない。したがって、厳密に言えば、それらの問題は同一性の問題ではないのである。たとえば、「あるFとあるGが同一であることはあるのか」という問題を見てみよう。これは「同じものがFであり、かつGでもあることはあるのか」と言い換えることができる。これをより単純に述べるとすると、「FであるものがGでもあることはあるのか」となる。こうして、この問題から同一性が抜け落ちてしまう。

同書、p.220 傍点は太字にした



そう。デイヴィッド・ルイスの言うように、同一性そのものは問題とはならないし、なりようがなく、なったことがない。古今東西“同一性の問題”として例示されてきた思考実験は、その実、同一性をダシにした、厳密に言えば、同一性とは別の問題である。引用の“同一性が抜け落ちてしまう”というのは、換言すれば、それらの問題の背景に、暗示的に、同一性はすでに自明な前提とされているということである。いや、というより、むしろ、そうであってこそ問題が問題として成立しているとさえ言えてしまうだろう。

そして、それは、同一性そのものという形而上学ではなく、(1)存在者の全体と部分(空間的にだけでなく時間的にも、そして、考え方によっては世界間も)、あるいは(2)存在者が何によって構成されているのか、といった同一性とは別の形而上学的問題、(3)認識論、(4)自然言語やそこから来る概念の曖昧性と規約的定義をめぐる問題などなどが本当のテーマなのである。“同一性の問題”として例示された思考実験のたいていは、これら(1)から(4)のうちのどれかに当てはまるはずである。こうして、同一性そのものは、疑いようのない、懐疑不可能なものであると言える。そして、このような同一性もまた、“自己中心的な事実”同様、出発点とすべき公理的事実なのである。

上の引用も下の引用も、どちらの洞察も、このうえなくシンプルでありつつ非常に強力だ。しかし、ときに、こういった問題に取り組む特殊な人(哲学者)のなかには、没頭し過ぎるあまり、ポイントを見落としてしまう人もいるのかもしれない。さらに、それぞれの洞察は交差し、そうすることで新たな問題が生じてくるように思われる。そこから先は、ルイスから離れて、純粋にこのブログの問題となっていく、というより、問題としてきたつもりである。

テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

しんいちゅうじ(shinichuji)

Author:しんいちゅうじ(shinichuji)
このブログの説明

検索フォーム
カテゴリ
最新記事
RSSリンクの表示
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

QRコード
QRコード
最新コメント
最新トラックバック
タグ(2012年11月の記事から)

風景 トマス・ネーゲル ウィトゲンシュタイン 他者 心理学 科学 身体  永井均 メタファー 同語反復 言語 CP  証明 存在 デカルト 独「いま、ここ」論 独現実論 キメラ 決定論 独我論 物理 自由意志 歴史 完了形 進行形 世界 思考実験 定義 認識 懐疑 事実 同一性 無人称 非人称 零人称 知覚 「あなた」 前人称 「いま、ここ」 矛盾 ライプニッツ 「この」 「場」 可能性 哲学者 経験 即自 感覚 対自 日常 トートロジー 現実性 俯瞰 テクノロジー 常識 存在-内-存在 世界-内-存在 「もの」 世界-属-存在 「こと」  パラドックス ハイデッガー 哲学 一人称 三人称 意識 イデア   未来 仮相 実相 境界 アスペクト 現在 相対主義 本質 実存 Essentia Existentia 二人称 情報 ア・プリオリ 開け パーソナリティ 倫理 心理学者 私の分裂 ニヒリズム 自己反省 主人公 記憶 過去 自己意識 時間と空間 村上春樹 連続性 制約の原理 飛躍の原理 ソール・クリプキ クオリア 非三人称 非二人称 非一人称 思想 コミュニケーション 知能 弁証法 実在論 西田幾多郎 ウロボロス 自己言及 人工知能 ロボット Twitter ゾンビ 物語 文学 プラトン 体験 ニコニコ動画 動画 哲学史 中島義道 眺望 野矢茂樹 ロールシャッハ・テスト  タイプとトークン ニーチェ アスペクト盲 ヒューム ヘーゲル 即かつ対自 ベルクソン フロイト デレク・パーフィット 遠隔輸送 アクトゥアリテート レアリテート 身体-内-存在 物語-内-存在 YouTube 言語-内-存在 Vimeo ユング 独「あなた」論 独存在論 人称-内-存在 ビンゾ 頽落 独歴史論 内言 シューメーカー 独宇宙論 世界内存在 世界=内=存在 モナド トリックスター 独科学論 独世界論 パラレルワールド 独物語論 独風景論 人工衛星 Flickr 睡眠薬 物理の試験 内界 外界 絶対矛盾的自己同一 

リンク