断章231
デカルトの“神は完全である”から“神は存在する”を導く存在論的証明は、“完全”という概念に依拠した、いわゆる分析的な、意味論的なものである。それに対して、同じくデカルトの“我思う、ゆえに、我在り”は、“我”という概念に依拠したものではなく、つまり意味論ではなく、語用論的な存在の証明である。
前者には、言語のレベルと存在のレベルの混同ないし飛躍が認められる。後者は、純粋に、存在のレベルにおけるものである。もちろん、概念自体の存在ということなら、“完全なる神(という概念)”は存在する(存在の文脈主義)。しかし、それだと“神”だけに限らず、たとえば“ユニコーン”や“ペガサス”にも、そして“我”にも、言えてしまう。