断章231


デカルトの“神は完全である”から“神は存在する”を導く存在論的証明は、“完全”という概念に依拠した、いわゆる分析的な、意味論的なものである。それに対して、同じくデカルトの“我思う、ゆえに、我在り”は、“我”という概念に依拠したものではなく、つまり意味論ではなく、語用論的な存在の証明である。

前者には、言語のレベルと存在のレベルの混同ないし飛躍が認められる。後者は、純粋に、存在のレベルにおけるものである。もちろん、概念自体の存在ということなら、“完全なる神(という概念)”は存在する(存在の文脈主義)。しかし、それだと“神”だけに限らず、たとえば“ユニコーン”や“ペガサス”にも、そして“我”にも、言えてしまう。

スポンサーサイト



テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

My memories 67

中学生のとき、“carp”や“furniture”が不可算だということに納得できなかった。しかし、たとえば不可算か可算かというのは、客観的な、人間の能力的な問題ではなく、つまり零人称・非人称・前人称・無人称ではなく、間主観・相互主観的な、英語的な見方、その規約・規範・規則の問題、つまり三人称、なのである。ここに中学生のときの不満と実状のズレがある。むろん、学習者は、いかに不満があっても、ただそれに合わせるしかない。あるいは、英語の改革者となって、運動をして、さらに主流派となって、新たな規約・規範・規則を造り上げるか、である。

記事一覧

テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

断章230


よく混同されがちだが、懐疑主義(スケプティシズム)と教条主義(ドグマティズム)は峻別されねばならない。前者は、あくまでも“かもしれない”であり、様相命題論理で用いられる記号で示すと“◇P”である。対して、後者は、単に“である”であり、“P”である。信念のステータスとして換言すれば、前者は可能性の考慮であるのに対し、後者は確信ないし断定である。

ただ、ややこしいことに、後者から前者が、様相論理の公理系のTを採用すれば、導出可能である(P⇒◇P)。しかし、その逆(◇P⇒P)は、演繹的には、不可能である。そのため、“◇P”から“P”を実現させるために帰納法としての諸科学が存在し、可能性を現実性にする、換言すれば仮説を実証する、その条件をめぐって認識論や科学哲学で熱い議論が交わされるのである。

ともかく、懐疑主義と教条主義が別物であること、特に、懐疑主義は、直ちに、それだけでは、教条主義を含意しないということは肝に銘じておかなければならない。また、ここから、陰謀論と諸科学は、論理的には同型であるので、それによって区別のつく違いではないということになる。それは、論理ではなく、言うまでもなく、エビデンス(それへの評価を含む)の問題である。

テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

断章229

 障害は痛覚に限られていた。反射は正常で、腸や膀胱のコントロールにも問題がなく、認知、気分、対人関係にもこれといった障害は見当たらなかった。この子供たちに「痛み」という言葉の意味を説明してほしいと尋ねると、適切に答えられる者はいなかったが、年長の子供たちは、痛みが他人にどのような行動を引き起こしやすいかを知っていた(たとえば、サッカーでタックルを受けたときに本当に痛がっているふりをして、相手選手にイエローカードを出させることまでできた)。

デイヴィッド・J・リンデン(岩坂彰訳)『触れることの科学 なぜ感じるのか どう感じるのか』、2019、河出文庫、p.200



生まれつき痛みを感じない者であっても、“痛み”という概念を十全には知ってこそいなくとも、周りの健常の他者の振る舞いから学習し、痛いフリをすることはできる(VARでめっきり減ったネイマールすることはできる)。ある意味当然なのかもしれない。自身に欠けているために完全には“痛み”の概念を把握してはいないが、ある程度の概念的理解は、特に誰の目にも見え、すなわち公共的で、演技などでも利用される“痛み”の振る舞いとしてのコードは、その出所や身分の違いとして、すなわち人称上の差異として、つまり三人称と一人称ないし二人称の差異として、「痛み」そのものと完全に一致するわけではない。むろん、“痛み”のコードが三人称であり、「痛み」そのものは、当人にとっては一人称、他者からすると二人称である。また、ひょっとすると、この引用のような事例は、(私が理解した限りでの)『探究』のウィトゲンシュタインの反例となっているのかもしれない。

ちなみに、引用の著者が試みているような痛み(というより、より正確には痛覚)の脳・神経科学的理解や説明は、零人称・非人称・前人称・無人称である。おそらく、芥川龍之介が、自身にはどのような良心もなく、持っているのは神経だけだと豪語したのは、この観点からであろう。文学的な修辞を無視して野暮に言い換えると、良心の背後に神経として対応するものがあったとしても、“良心”という概念そのものは三人称的な規範性におけるものであり、神経は零人称・非人称・前人称・無人称である。

テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

My memories 66

夕食後にクリスマスのケーキを食べていると、姪がこちらに来て恨めしそうにじっと見てくる。姪はすでに食べたはずであることを何度か指摘すると、その都度“タベテナイ”と(おそらく)ウソをつく。私がその場にいなかったことは確実に覚えており、ひょっとすると、だから騙すのが可能だと考えたのかもしれない(ウソをついていたのだとしたなら)。

間違いなく、言語の習得とウソをつくことには密接な関連がある。すなわち、仮想的に相手の立場に立ち、同時に自身を相対化させるという点で。もっとも、言語コミュニティに参入し始めたばかりの3歳に満たない彼女は、当然、まだまだ未熟であり、どこまでウソの自覚ないし騙そうとする意図が明確であるかは定かではなく、むしろ混沌としているように思われる。しかし、それでも、たぶん、ピアジェの発達観は、一面で真実ではあっても、全体的に過小評価の傾向にあるのだろう。

記事一覧

テーマ : ひとりごと
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

しんいちゅうじ(shinichuji)

Author:しんいちゅうじ(shinichuji)
このブログの説明

検索フォーム
カテゴリ
最新記事
RSSリンクの表示
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

QRコード
QRコード
最新コメント
最新トラックバック
タグ(2012年11月の記事から)

デカルト 存在  証明 言語 前人称 三人称 無人称 非人称 零人称 現実性 懐疑 認識 哲学 科学 可能性 一人称 ウィトゲンシュタイン 文学 他者 二人称  自由意志 物理 経験 事実  世界 ヒューム 内界 世界-内-存在 世界-属-存在 外界 世界-即-存在 世界-際-存在 思考実験 人工知能 俯瞰 ロボット 歴史 純粋経験 身体 西田幾多郎 クワイン 「もの」 「こと」 本質 同一性 K-必然性 日常 常識 自己意識 実存 「場」 永井均 「あなた」 哲学者 開け 村上春樹 記憶 自己反省 「いま、ここ」 完了形 進行形 メタファー 境界 知覚 アスペクト 感覚 意識 クオリア イデア プラトン ニヒリズム 倫理 定義 相対主義 パラレルワールド 「この」 哲学史 現在 未来 過去 矛盾 物語 思想 心理学 フロイト メタ人称 ビンゾ 四人称 独我論 決定論 情報  テクノロジー 実在論 ゾンビ 遠隔輸送 弁証法 Twitter パラドックス  ソール・クリプキ ライプニッツ ノモス-内-存在 野矢茂樹 ハイデッガー 主人公 トートロジー 同語反復 レアリテート 中島義道 アクトゥアリテート シューメーカー 時間と空間 存在-内-存在 CP 体験 タイプとトークン  眺望 キメラ 心理学者 連続性 動画 ユング 私の分裂 非一人称 コミュニケーション 風景 デカルト的転換 制約の原理 飛躍の原理 デレク・パーフィット ア・プリオリ Existentia Essentia パーソナリティ 知能 YouTube 頽落 人称-内-存在 三浦俊彦 自己言及 独歴史論 独現実論 独世界論 独宇宙論 非二人称 ロールシャッハ・テスト 非三人称 ウロボロス 対自 即自 トマス・ネーゲル 独「あなた」論 ベルクソン 即かつ対自 独「いま、ここ」論 仮相 実相 ニコニコ動画 ニーチェ アスペクト盲 ヘーゲル 身体-内-存在 物語-内-存在 言語-内-存在 Vimeo 独存在論 内言 世界内存在 世界=内=存在 モナド トリックスター 独科学論 独物語論 独風景論 Flickr 人工衛星 睡眠薬 物理の試験 絶対矛盾的自己同一 

リンク