断章195


ゼノンのパラドックスがパラドキシカルであるのは、現実の自然法則、あるいは、それについての直観と齟齬を来たすからである。逆に言うと、ゼノンの議論の前提を受け入れれば、他を捨象してそれだけが成り立つゼノン空間においては、その論理自体はまったくパラドキシカルではない。

同様に、「こころ」についての問題も、人称構造空間において、あるいは、それを見落とすことで生じていると言える。

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テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

断章194


特に英語を中心に、外国語の学習の仕方について教示された書籍やネット記事や動画は、文字どおり溢れかえっている。しかし、当然のことながら、それらをいくら読んだり見たりしたところで、学習の方法論については詳しくなれたとしても、外国語を習得することは一向にないだろう。やはり、最終的には、コツコツと地道に実践を積み重ねていくしかないように思われる。これは運動、楽器、そして哲学についても同様であろう。とあるテーマについて、他人の哲学をいくらサーベイしたところで、そのテーマ自体を哲学したことにはならない。そこは一線を画す。ここがロードスであり、ここで跳ぶべきなのである。

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誤り得る自己意識と誤り得ない自己意識


 街中で明石家さんまを見かけたと思い、“さんまだ!”と声をあげ、指をさす。しかし、その人は、多少似ているところはあるが、完全に別人であったとする。これは、日常的に、ごくありふれた指示の失敗である。まったく純粋な言語の意味という観点から、固有名としての“明石家さんま”が存在者としての「明石家さんま」を指すことに何ら疑問の余地はない。けれども、意味の実際の運用として、能力的に、現実の「場」においては、当然「明石家さんま」に限らず、すべての存在者に対し、原理上、指示に失敗する可能性は常にある。もちろん、ここには蓋然性という程度の問題があるが、あくまで“可能性”としては、それを度外視することになる。

 同様に、固定指示子としての“私”が指すところの存在者が、実は、想定していた存在者ではなかったという可能性はある。すなわち、“私”で存在者εを指示すると思っていたが、つまり私は自身のことをεだと思い込んでいたが、そういった自己意識の内容を持っていたが、実は存在者ζであった、と。したがって、このとき“私はεである”という言明は偽となる。しかし、同定指示子としての「わたし」が指すところの存在者は、それが何であれ、それが「わたし」なので、指示に失敗し得ない。これは、自己意識の、内容ではなく、形式としてそうなるのである。“私が誰であるか”は誤り得るが、トリヴィアルに、それゆえ必然的に、“「わたし」は「わたし」である”は誤り得ないのである。

2021043001

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見ることのバラエティ


 ヒトには電磁波における可視域、空気の振動における可聴域がある。動物のなかには、紫外線を感知できるものがいたり、赤外線を感知できるものがいたりする。そもそも、「紫“外”線」も「赤“外”線」も、ヒトの視点や立場からのものでしかない。ひょっとすると、宇宙のどこかには、地球上の生物には不可能であろう、重力波を感知する生命体もいるかもしれない。

 以上のような議論は生物学を基準にしている。同様に、ヒトという同一種内においても、たとえば三色覚だったり二色覚だったり、あるいは四色覚だったり、そうした視え方を問題とすることができる。この場合は生理学を基準としていると言える。生物学も生理学も、どちらも共通してピュシス的であり、人称で言えば、零人称・非人称・前人称・無人称である。

 見え方における人称構造には、これ以外にも、ノモス的な、文化・社会を規準とした解釈としての、そうした観え方としての三人称がある。また、個人の見えそのものに、すなわち私秘性に焦点を当て、原理的に不可知となる他者の見えとしての二人称、さらに、無二なる「この」「わたし」の唯一の「この」見えとしての一人称がある。

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断章193


英語やフランス語は論理的な言語だという意見を聞いたことがある。おそらく、事情は、それら自体が論理的というより、外国語としてそれらを学ぶとき、文法という法則性や規則性をもとに、体系的に筋道立てて学ぶので、学習者がそう感じるというのが本当のところなのだろう。もちろん、言語それ自体に論理的な側面があるというのは、たしかに、そのとおりである。でなければ、それは意思を伝達する手段にはなりえないはずである。“日本語は非論理的だ”という人がたまにいるが、それは使用者が非論理的なだけであろう。口ならぬ、SNSが災いの元となるのが使用者次第であるのと同様に。したがって、英語やフランス語がそうであるように、日本語にも日本語の論理があり、外国語として日本語を学ぶ学習者は、そうした側面からアプローチしているはずである。ともかく、母語の習得と外国語の学習は別物なのだ。しかし、その反面、日本語はもちろん、英語にもフランス語にも非論理的ないし非効率的な側面もある。それは、おそらく、歴史的経緯に由来するところの、まったくの慣習であるところの、学習者に対してそのように説明するしかないような、恣意性なのだろう。

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