独「あなた」論の奇妙さ

『屍者の帝国』(伊藤計劃・円城塔、2014、河出文庫)という本を読んだ。死者を屍者として甦らせることができる世界を描いたSF作品である。甦らせることができると言っても、屍者と生者では行動面などで大きく異なり、その違いを生じさせるものとして魂の有無が考えられている。そのような世界において、(ほとんどお約束のように)当然のごとく生じる問題として、主人公のワトソン(引用の“わたし”)とハダリーという女性の興味深いやり取りがあった。
「あなたは魂を感じますか」
ハダリーは問う。ええ、と即座に答えるわたしに、
「わたしには、魂の実感がありません。それがどんなものかわからない」感情のこもらぬ声で告げ、「あなたは御自身の魂を実感できる。それは良いとしておきましょう。ではあなたは他の人間の魂を、どうやって確認するおつもりなのです」
「実感で」
「その実感は、自分の魂と、他人の魂では異なるはずです」
カイバル峠でわたしが解剖した新型の屍者。その挙動や脳の構造に、わたしは魂の存在を認めなかった。魂は脳の外観からは観察できない。自分は魂を持たないと主張する人間などいない――今、わたしの目の前に、自身の魂の不在を主張する人物がいる。ハダリーは言う。
「この世界でただ一人、あなただけが魂を持つと仮定してみましょう。あなたの他の人々は、“自分には魂がある”と主張する機能を持った屍者なのだと。何か矛盾は生じますか」
わたしは思考を全力で回し、
「もしあなたが魂を持っているのなら、その問いは成り立ちません。それは典型的な独我論だ。独我論者は、ただ一人しか存在できない。独我論者は、この世界で魂を持つのは自分一人なのだと主張する。あなたとわたし、二人の独我論者が存在することはできないのです。だから、独我論者が、他の人間からの説得で、自分を独我論者と認めることは起こりえない」
「わたしには魂の実感がないと申し上げたはずです。魂を持たない者から、あなただけが魂を持つと指摘される場合には何の矛盾も起こらないはず」
ハダリーの静かな反論に、わたしは息を詰まらせる。(pp.236-237)
ある特定の他者、固有名を持った「あなた」、その「あなた」のうちのあるひとり、便宜上、ここでは「この」「あなた」としよう、その「この」「あなた」にのみ魂があり、そのように述べる「わたし」や、「この」「あなた」以外のすべての他者には魂がないとされている。いわばこれは、独我論ならぬ独「あなた」論であると言える。ホームズ気取りではないが、ワトソンに代わってこの問題を考えてみよう。
まず最初に述べておくが、上の引用や以下の議論における“魂”という語が気に入らなければ、“意識”、“クオリア”、“志向性”、などなど、お好みで変換可能である。以下の議論は、おそらく、どのようなタームにしても成り立つはずである。というのも、ここでの問題は、それら概念の概念上の些末な違いをめぐる煩瑣なものではなく、それらの概念の背後に共通して存在するところの、もっと言えば、それらの概念が可能となり、成り立つところの、人称という構造上のものなのである。
さて、たしかに、独「あなた」論は、一見、矛盾なく問いとして成立しているように思われる。しかし、「この」「あなた」とそれ以外の他者とを区別する根拠がない。この根拠がないことに目を瞑ることが問いを成立させるための前提条件であるのならば、そのような前提は、到底受け入れることができない。
つまり、同じように“魂がある”と述べることができ、述べているにもかかわらず、「この」「あなた」には“現に”それがあり、それ以外の他者にはないとするとき、この“現に”は認識論上の差ではなく、それは存在論上のものでなければならないのである。
そのため、引用のワトソンの“実感”によって魂のある他者(生者)とそうでない他者(屍者)を見分けられるというのは、結局のところ、それはそのように見える、それっぽく見えるというふるまいの違いでしかなく、“現に”それ自体ではない。そして、そうであるのならば、“なぜ「この」「あなた」なのか”には、けっして答えることができない。いわば、問いの答えが正しいか否かではなく、そのように問うこと、問い自体に正当性がないのである。
それに対して、本来の独我論であるところの「この」「わたし」のみが魂を持つという場合、その問いを発する者自身のことであるのだから、現に魂を持つ当の者として“現に”と述べることが可能である。問いの答えが正しいか否かではなく、そのように問うこと、問い自体には正当性がある。いわば、「わたし」には、そう述べる権利がなければならないのである。そこには「わたし」と「わたし」以外の他者との存在論上のたしかな差異が存在する。
ただ「わたし」が「この」「わたし」であるということに帰結するところの、この存在論上の差異は、もちろん認識論を経てのものではなく、直接的なものである。自分の魂と他者の魂の違いは、“実感”した結果、その差異が得られるというようなものではなく、もはやその“実感”そのもの、実感を実感としているところのものなのである。
しかし、「この」「あなた」とそれ以外の他者の場合には、存在論的な差異にはアクセスできず、「わたし」に認められる差異はただ認識論上のものでしかなく、そのため、くり返しになるが、“そのように見える”、“それっぽく見える”が限界なのである。そして、そうであるのならば、そこからでは“なぜ「この」「あなた」なのか”には、絶対に答えることができない。
そもそも、他者というのは、他者がそれ自体で他者なのではなく、「わたし」にとって他者であるということである。「わたし」と他者には、必然的な、存在論上の差異があるが、その他者のなかから、ひとり「この」「あなた」を選ぶことには、「わたし」と他者のあいだにあるような存在論上の必然的差異はないのである。
「この」「あなた」とそれ以外の他者を分かつものがあるとしたら、それは、認識論上の違いとして、たまたま「わたし」には他の他者たちとは違うように見えた、あるいは、たまたま「わたし」と同じ「場」を共有していた、たまたま「わたし」が思いついた、たまたま「わたし」とこのような問題について議論していた、といったような偶然性しかない。
独「あなた」論は、「この」「わたし」とそれ以外の他者との存在論上の差異を、「この」「あなた」とそれ以外の他者へとスライドさせ、あるいは密輸入することで、問いとして成立しているように見せかけていると言える。たしかに、問い自体に矛盾はない。しかし、問いを問いとして成立させるための正当性はない。端的に言えば、奇妙なのである。
独我論の奇妙さは、“論”としての奇妙さ、それを言語にするときに生じる奇妙さであった。引用のとおり、他者からの説得で独我論者になることは不可能である。独「あなた」論は、そのような独我論を前提としつつ、それを言語ではなく別の存在の差異へとそのまま移植し、あるいは、「わたし」と他者の存在レベルの差を言語のレベルで「わたし」を相対化しつつ、しかし、「わたし」から見た「この」「あなた」とそれ以外の他者へと再び存在のレベルの差に強引に移行している。独「あなた」論は、このような二重三重に奇妙な事態に陥っていると診断できる。その意味で、独「あなた」論は、ただ方向性が違うというだけの問題ではなく、独我論以上にはるかに奇妙なのである。
ワトソンはハダリーにこのように答えるべきであった。簡単に言えば、人称にもとづく存在論と認識論を区分し、そこから問いとして成立しえない、そこに正当性がないことを指摘すべきであった。そして、以上から明らかなように、ハダリーの“わたしには、魂の実感がありません”との言明が意味しているものをけっして理解することはできないのである。もちろん、逆に、“魂の実感がある”と述べた場合も理解不可能である。そこにあるのは、ただ存在論上の差異、あるいは人称的断絶だけであり、そして、このような構造において、はじめて問題が問題として生じているのである。
最後に、おまけになるが、独「あなた」論の不可能性は、人工知能の完全な実現の不可能性を意味するということを述べておく。何をもって人工知能の実現と考えるかは、さまざまな意見があるのだろうが、ここで“完全な”というとき、まったく人間とそん色ないということを意味する。認識論上、まったく差異のない、つまり、まったく人間とそん色のないふるまいをする人工知能は可能的であり、いずれ実現するのだろう。しかし、それは、あくまでも認識論上のものであり、でしかなく、存在論上のものではないのである。そして、このような存在論とは、もはや形而上学であり、工学、というより科学の領域ではない。にもかかわらず、(人工知能関連に限らず)科学の側から安易に、無防備に踏み込む場合があり、そして、そのような万能感にお門違いな相対主義で批判する場合がある。そうではなく、ここでは原理的な限界を指摘することが必要なのである。この場合で言えば、たとえば人工知能の実現をどこに設定するかといった問題を考える際に、通行不可能な、それ以上先に進むことのできない道を教えることができるという意味で、寄与することになるだろう。
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